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よろしければ音声を聴きながら記事をお読みください。(2部構成)
今日は、少し重い話題なのですが、
身近な人の死、大切な人の死を
受け入れることについて、
お届けしようと思います。
セラピーの現場で、
クライアントさまから、
大切な人の死についてお話を伺うことは、
珍しいことではありません。
親御さん、兄弟、姉妹、
恋人、配偶者、友人、職場で出会った人など、
クライアントさまにとって、
大切な人が亡くなったという話は、
結構な頻度で伺います。
当然ながら、死因も人それぞれ、
病死、自死、災害死、事故死など。
クライアントさまの中には、
お金を頂いて話を聴かせてもらっているセラピストの私にすら、
「こんな重い話をしていいかしら。。。」
「こんな暗い話をしてごめんなさい。」
などと仰る方もいらっしゃいますが、
私にとっては、全く重たく感じるテーマではありません。
というのも、
私は若い頃、摂食障害だったのですが、
回復のための一つの手段として、
摂食障害の自助グループに通っていたり、
依存症関係のセミナーにも
よく参加していました。
でまあ、そこで出会う人たちは、
みなさんなんらかの依存症に悩む人たちですから、
亡くなることが多いというか、
亡くなる率が高いというか、、、
自助グループで出会った仲間たちを、
何人も何人も見送ってきました。
だから、人の死については、
私なりに向き合ってきたつもりです。
私なりに死というものに向き合ってみて、
たくさんのことに気付きました。
生きているということは、
いつか死ぬということで、
人は誰でも死ぬわけだけど、、、
大切な誰かを失ったということは、
その人にとっては大きな喪失体験であり、
誰にとっても、特別な体験。
人が死ぬということは、
普遍的であるという面と、
特別で個人的な体験という面の二つがある。
ということです。
だからかな、ブログの題名を
「大切な人の死を受け入れるには?」としたけど、
これに関して、他人がとやかく言えることって、
もしかしたら、ほとんどなくて、
大切な人の死に直面したその人の傍らに、
ただ黙って座っていることしかできないのかもな・・・
なんて思ったりしています。
私が、友人の自死を受け入れた時のプロセス
私の体験を一つシェアさせてください。
私は、毎年、この季節(秋)になると、
ある友人が自ら命を絶ったことを
思い出します。
彼は、私と同世代の男性で、
背が高く、色白で、鼻筋がスゥっと通った
ハンサムというより美青年という言葉が
似合う人でした。
※彼はゲイだったので、恋愛感情は一切なく、
逆に、それが安心感をもらっていました。
彼が突然、自ら命を絶った時、
私は、ものすごいショックと喪失感で、
半年くらい、世界が灰色でした。
私の世界には、笑いというものがなく、
何人かと話していて、他の人が笑っていると、
「ああ、ここは笑うことなんだな。。。」と思い、
あとから、とってつけたように笑っていました。
笑いと同じように、
楽しいことも、
ワクワクすることもありませんでした。
美味しいものもありませんでした。
まるで、自分が世界の片隅にいて、
みんなが一生懸命、人生を謳歌しているのを、
一人見ている。
そんな感じでした。
何をするにも、やる気が起きず、
なんとか会社に行き、仕事をこなすのが
精いっぱい。
仕事の時以外は、
ぼんやりとするか、
彼が死んだことを思い出しては、
涙を流していました。
部屋でぼんやりとしていて、
気が付いたら、
2時間、3時間経っていたというが、
ザラでした。
生きる気力がない。
生きる希望がない。
って、
ああいう状態を言うのですね。
いやはや、灰色の世界で生きるのは、
本当に辛いものです。
人は、何か希望がないと、
生きることができないんだなあと、
あの経験から学びました。
その頃、カウンセリングを、
ほぼ毎週、受けており、
その時のカウンセラーに、
ものすごく助けてもらいました。
私が一番生きる気力が落ちていて、
まるで、自分が消えてしまいそうだと感じていた時、
カウンセラーが、こんなことを言いました。
「どんなに辛くても、生きていてね。
あなたが死んだら、
あなたについた彼の匂いが消えてしまうでしょう?」
「彼の匂い?」と、私が聴き返すと、
「存在の匂いのようなものよ。
彼の存在が、まるで、匂いのように、
あなたに沁みついて、
あなたを通して、人は彼に出会っていくと思うわ。」
生きていてね。
あなたが死ぬと、
あなたについた
彼の存在の匂いが
消えてしまうから、
この言葉が、私をどれだけ支えてくれたことか。。。
あれから、10数年。
彼の存在の匂いは、
今も確かに、私に沁みついています。
今、彼のことを思うと、
彼の笑顔を思い出します。
それはそれはきれいな笑顔です。
私が、心の中の彼を見つめる時、
彼はいつも、ちょっと照れたように笑います。
その笑顔に触れるたびに、
私は彼の存在の美しさに
泣きそうになります。
その時、私から、
彼の存在の匂いがしているのを感じます。
ものすごく落ち込むたびに、
心の中の彼に助けられています。
大切な人を失った時の心のケア
このブログを読んでくださっている方の中でも、
つい最近、大切な人を失ったばかりという方も
いらっしゃるかと思います。
亡くなった方が、大切な人であればあるほど、
その死を受け入れることに抵抗がありますよね。
時には、自分も死んでしまいたい。。。
そんな風に思う方もいらっしゃるでしょう。
そんな状態にいらっしゃる方に、
言葉はあまり役に立たないかと思うのですが、
一つこれは助けになるのでは?と
思うことを挙げてみます。
このエピソードは、
セミナーの女性講師から聴いた話です。
ユダヤ教では、人が亡くなった時、
親戚や友人・知人たちは、
その亡くなった人の家を訪ねて、
ただただ黙って、遺族のそばに居るそうです。
その遺族が、何か話すまで、
周りの人は沈黙し続ける。
そういう儀礼があるそうです。
※私は無宗教でユダヤ教を支持するわけではありません。
このエピソードを聴いた時、
傷ついた人の傍らに、
ただ黙って座っている。
それが、すごく人にとって支えになるのだなと思ったし、
やっぱり人間って、
自分以外の誰かとのつながりの中でしか、
癒されないんだな、、、と
思ったんですよね。
なので、
引きこもりたくなるかもしれないけど、
引きこもる時期も必要だし、
あって全然いいとは思うけど、
何も聴かず、黙って、自分のそばに居てくれる
そんな存在とのつながりを大事にするのがいいかと思います。
これって、人間とのつながりだけとは限らなくて、
例えば、
人間以外の動物・
犬や猫、ザリガニや亀なんかとのつながりだったり、
海や空、木々、花などの自然とのつながりだったり、
コミュニティとのつながりだったり、
自分が安全感を持てるところなら、
何でもいいのかなと思います。
ちなみに、私は、
友人が自死した後、
足しげく、ヨガや野口体操のレッスンに通っていました。
そこの先生や通ってくる人たちとは、
たいした話もせず、挨拶するくらいで、
淡々と一緒に身体を動かすだけだったのですが、
それがすごく助けになりました。
自分が何も話したくなければ話さなくて良い、
周りから、内面に踏み込んだ話をしてこない、
だけど、自分を待っていてくれる感じがある、
そんな場所、そんな関係性というのが
助けになるのでは?と思います。
大切な人を失った時の身体のケア
大切な人を失った時、
人は、そのショックや喪失感から、
眠ることや、食べること、
笑うことや、何かを見てきれいだと思うことなど、
普通の日常のことができなくなる人がほとんどでしょう。
そういう時は、
とにかく身体を温める。
眠れなくても食べられなくても
笑えなくてもトキメかなくても、
とにかく身体を温める。
これを心がけて欲しいかなと思います。
具体的には、
朝起きた時お白湯を飲む
お風呂はシャワーでなく湯船につかる
女性ならストッキングはなるべくやめて、靴下を履く
などなど、、、
身体を温めることによって、
血行が良くなり、
そのことが心をほぐしてくれます。
その人の死を、どんな死にするのかは、残された私たち
例えば、
私の体験に出てくる彼ですが、
まあ、人間ですので欠点もありました。
弱虫なところや、傲慢なところ。。。
だけど、彼が死んで、
最後に私の中に残ったのは、
彼の存在のエッセンス・美しさのようなものでした。
肉体としては、もう彼に会えませんが、
心の中にいる彼を感じ、
そのエッセンスに触れることはできます。
そして、そのことで、
彼は私を通じて、この世に生き続けるのだと思います。
これって、
私が彼の死を作っている、
彼の死を生かしているということ。
そんな風に思っています。
最後に
『心的外傷と回復・ジュディス・ハーマン著』という
本の一節を紹介します。
人格の統合性とは死に直面しても
人生の価値を肯定しうる能力であり、
自己の人生の限界の有限性と
人間の条件の悲劇的限界と和解する能力であり、
絶望なくして現実がそういうものであることを
受容する能力である。
人格の統合性は対人関係における信頼を
そもそもその上に作った土台であるが、
いったん砕かれた信頼を取り戻す土台でもある。
『心的外傷と回復』治癒的関係とはp240より
ちょっと硬い文章ですが、
私の言葉で噛み砕いて言うと、
誰の人生にも理不尽なことが起こるけど、
それでも絶望しないで、
その理不尽さを受け入れつつ、
人生は素晴らしいと言える、
そんな能力が『人格の統合性』というものだよ。
という感じです。
以上、ご参考になれば幸いです。